第8回「いじめ・自殺防止作文・ポスター・標語・ゆるキャラ・楽曲」コンテスト
 作文部門・最優秀賞受賞作品


      『 誰かの生きる力』
        


                                             野村 勇気

 

正直に、初めて告白します。

私は、いじめをしたことがあります。
いじめをされたこともあります。

それで、うつ病にも悩みましたし、
自殺未遂を越えて、そして克服しました。

私は、2歳になる娘をもつ父親です。

この子が成長した姿を思い描きながら、
「心といのちの大切さ」を語り合うように
言葉を残していきたいと思います。

最初にいじめられたのは、3歳でした。
仲良しなはずだった
幼稚園のX君にウソの陰口を叩かれ
突然、ぼくは一人ぼっちになりました。

友だちたちが目の前で、
サーッといなくなった残像と
うす暗い教室にとり残されていった
さみしさは今でも思い出せるものです。

それから、ぼくは
いじめっこにもなりました。

やさしい性格だった
Q君をからかってみたことに始まり
みんなの前での嫌がらせをしました。

それは自分の身を守ることでもあり
本心では、好きな友だちだったのに
ムシャクシャが止められませんでした。

彼に嫌がらせをしたことが
お母さんにバレて、2人で謝りに
Q君のお宅まで伺った夜がありました。

「どうして、そんなことしたの!」
「そんなこと、ママはおしえてない!」

と帰り道でも、家でも、寝る前までも
お母さんにはこっぴどく叱られました。
背筋のゾワゾワが止まりませんでした。

ぼくには、声にならない声がありました。

それは、違う人からは悲しい思いを
させられた経験があったということです。

Q君は、しばらくすると
お父さんの転勤で引っ越していき
年賀状のやりとりだけが続きました。

ぼくは、Q君の写真の顔色を
うかがっては、ごめんねの気持ちと
モヤモヤした変な思いが混ざりました。

ウソつきのX君はというと、
小学校でもコソコソとして
ぼくの悪口を広めていました。

小学生なりの裏切りや騙し討ち、
グループ作りの画策もしばしばです。

ぼくは、それでもなぜか
X君のすべてを嫌いになれず、

字も絵もうまいし、スポーツもできる
憧れとともに、ライバルのようでもあり、
仲良くなることを捨てられませんでした。

事実、仲良くできることもあったのです。

ある時期から
彼の言動は周りに理解されず、
孤独になる様子が増えていきました。

そして、その年の夏休みが明けると、
友だちのだれにも、なにも告げないまま
どこか分からない所に転校していました。

遊びに行ったこともあるX君のお家には
高齢のお父さんが一人だけで暮らし、

酔っ払い、近隣の子を怒鳴りつける人物
として後に、地域と学校に警戒されました。

外見は、活発的だったX君ですが、
お父さんの前では、その存在を消して
静かに息をひそめた様子を覚えています。

9歳のぼくは、それから
いじめる側にまっしぐらでした。

いじめに、正解は一点もありません。
いじめは、絶対に間違っています。

ぼくは、弱い人間です。臆病です。
だから、いじめに及んでいました。

具体的には、あえて言いませんが、

友だちの身体的なこと、性格のこと
仕草、癖などをバカにしていました。

人を嫌がらせて、泣かせて、怒らせて、
騒ぎにさせ、そして笑いものにしました。

正しい理由は、絶対にありませんでした。
自分のイライラをぶつけていたのです。

悪知恵な仲間にも引きずられて、
「いじめていい人」へのレッテルを貼り
友だち数人に、ひどい思いをさせました。

それを「楽しい」とすら感じました。

いじめをすると、スッキリして
気持ちが良くなることがあったのです。

そのことに気づいた時、
ゾッとしました。

血の気が引いていき、
自分は何かがおかしいと思いました。

人にやられた分は、他の誰かにやり返す。

そんなことを、くり返し続けては、
心が抜け出せなくなっていたのです。

それがどうにか、わかってきても、
変わっていくことは難しいものでした。

まるで動物、サルたちの習性のような、
無意識の醜さがこびりついているのです。

中学生になると、友だちのいじめの
相談にのることもありました。

一人の友だちは、先輩の標的にされ、
教師の無神経な言動にふりまわされ、
家族関係の悩みも抱えていました。

そういったストレスが重なったことで、
心の病気と闘いつづけた友の3年間を
すぐそばで見ていました。

僕にできることは少なかったですが、
感謝の手紙をもらったことは忘れません。

いじめを受けていい人は、
この世に一人もいません。

以前、小学校の同窓会で、
僕がいじめていた、L君と再会しました。

目を背けたい部分もあり、
僕は関わろうとせずにいたところ
帰り道で、L君から声をかけられました。

「……謝りたいことがあるんだ」
と彼に話をされて、驚きました。

かつて僕たちに、いじめられていたことは
しんどかったけど、原因は自分にあった。

俺は変わっていたし、ムカついただろうし、
いじめられたのも、仕方がないと思う。

「だから、本当にごめん! 許してほしい」
とついには、頭まで下げられたのでした。

僕はすぐに、L君を両手で起こしました。
そして、彼の発言をすべて撤回してから、
自分こそ心の底からの謝罪を続けました。

絡まった感情が解けると、
お互いに好きで、尊敬していた気持ちも
伝え合うことができたのは、不思議です。

最後は、笑顔で握手をして
別れた思い出は宝物になっています。

その頃も、私は悪夢をよく見ていました。

高校時代の人間関係のもつれから、
人間不信をずっと拭えなかったのです。

いえ、さかのぼれば、3歳位から
同じようなパターンは続いていました。

今度は、Z君から受けた陰口でしたが、

高校生にもなると陰湿で、徒党を組まれ、
2年間はターゲットにされていました。

理由は、卒業後にやっと分かりました
Z君とは共通の友人A君がいたのです。

ある日のこと、Z君はなにを思ったのか、
「なあ、お前の一番の友だちってだれ?」
と、A君に質問をしてみたそうです。

A君は当然、Z君を尊重しながらも、
色々あって、私の名前をあげました。

Z君にとって許せない発言でした。
それで、私の価値を落とそうとして、
クラスメイトにデマを流していったのです。

それは、私が辞めていた運動部の
部員たちの興味にもハマりました。

廊下ですれ違うたびに、嫌味で、不快な
言葉たちが、薄っすらと聞こえてきます。

誰にどんな話をされているか分からない。

人の目線が気になり、自分のことを
どう思っているかに頭をめぐらして、
寝つきの悪い夜が当たり前になりました。

悪夢の中で、私はいつも一人ぼっち。

大勢の人に囲まれ、嘲笑われて
恐怖にブルブルと怯えて、逃げようにも
逃げられず、囚われて、ただ耐えるのみで
時間をやり過ごして待つだけでも苦しい。

目が覚めても、一日中、
その重たい感情はつきまといました。

自分では解決できず、
他の人たちに八つ当たりをして
妹まで、いびって発散していました。

一言でいえば、病んでいました。

社会人になると、不規則な生活に
ストレスと不摂生が重なったことで、
自律神経のバランスを完全に乱します。

そこからは、どうしようもなく、
精神疾患の様々な症状が吹き出しました。

心のネガティブな種が、
マイナスな栄養をどんどんと吸収し
根を深めて、茎を伸ばして、葉を広げて、
ついに、花を咲かせた最悪な状態です。

手のつけようがありませんでした。

治療を施してから、体質改善をしました。
試行錯誤をくり返す中、たどり着いた
大事なことは「心のケア」です。

私は死にたくて、心底たまらなくなって、
自分は死んでしまったほうがましで
生きる価値もなく申し訳ないと
何度も何度も思いました。

自分を傷つけて、
いのちを軽く扱いました。

まずは、「体の健康」を取り戻す中で、
次に、「心の健康」もそれと同等に
大事なことだと気づきました。

そこで、心理カウンセラーの学校に入って
メンタルヘルスの知識・スキルを1つ1つ
地道に、粘り強く身につけていきました。

そして、私が苦悩を克服できたのは、

「自分を大切にする」と心に決めたからです。

なんだ、そんなことか、
というほど簡単なことです。

それでも、
人は自分のことを大切にした分だけ、
誰かのことを大切にできます。

いじめを経験した方はなおのこと、
人の気持ちに深く寄り添うことができ
優しさを届けていけるのだと思います。

そうして、誰かの生きる力になれた時、
人はより良く、強く、豊かに、幸せに、
人生を生きられるのだと実感しています。

私は、いじめもしたし、されました。
だからこそ、「心といのちの大切さ」を
身をもって語れるように生きていきます。

その背中を、娘は見ていると思うのです。